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2008年04月09日
N森さんの短編小説「錆鼠」
以下に掲出する短編「錆鼠」の作者はかちゃくちゃではない。名古屋のN森さんです。「錆鼠」はさいしょ、文芸同人誌『ホーン』(2007年11月刊)に掲載された。これを転載することにした背景などについては「サプリメント遁走」4月8日分をご覧ください。冒頭の雨のシーンは読み通しづらいと思うけれど、ぜひ最後まで読んでいただきたい。
横殴りの雨が降っていて、その中を帰らなければならなかった。電車からおりると夜であった。途方ない暗やみの天井から、たけだけしい雨が地面めがけて降り落ち、ごうごうとする風は、雨をさらうばかりの勢いで激しく吹いている。改札機を抜けた人々は、一瞬、目の前の天候にひるみ、立ち尽くし、そこへコカ・コーラの赤い空き缶が、風に誘われ、カラカラと、どこへともなく通り過ぎてゆく。このまま大荒れの天気を何の手も打たず見守りつづけても、なにもはじまらないと思いあらため、しぶしぶ傘を広げ歩きはじめる人、向かいのコンビニに立ち寄って雨のおさまりを待とうとする人、迎えの車に駆ける人、さまざまで、まもなく人がはけてしまった。それでも女はしばらくそのままにいた。車のライトが水浸しの地面に反射して、まぶしい。クリーニング屋の木製の看板が、風雨に倒れて地面に叩きつけられた。クリーニング屋は、どうして、前もって看板を避難させなかったのか、わたしなら、天候を見計らって店内に戻しておくだろうと考えているうちに、ようやく女も、遅ればせながら、そのまま傍観していても仕方がないという気にもなりはじめ、持っていたビニール傘を広げると、駅の裏側にある駐輪場まで歩きだした。
高架下をくぐり、電灯のない暗い細道を通ってゆく。雨ざらしの自転車置き場がある。置き去りにされて帰宅することを許されない無数の自転車のなか、なんとか自分のを見つけ、錆付いた錠をこじ開け、またがると、突然女の尻のあたりに冷たい感触が伝わった。女はヒャッと声を上げ、反射的に自転車から飛び降りた。サドルに溜まっていた雨水の仕業であった。女にとっては考え及ばぬところであったので、おどろきのあまりしばし呆然とするが、カバンからハンカチを取り出すと、まだわずかに残っていた水滴を拭き取り、ふたたび自転車に両足をはさんで、一路、傘を片手に自宅へ向かおうとするけれども、弱まることのない雨足は、気が狂れたように正面から女に立ち向かい、そのため女は真っ直ぐ進むことができずにいる。通常のように傘を広げたまま運転しようにも、ビニール製の傘の布地が風圧を真っ向から受け、傘を持っている腕まで吹き飛ばそうとするし、雨をよけようと傘をすぼめると、前方が見えなくなって運転できないから、自転車は進むどころかという話であった。努力に比例した効果が得られないので、女はくよくよした。どうしたものかと困っていると、やがて突風が女の傘をさらい、女はすぐさまずぶ濡れになった。ずぶ濡れになって、運転せずに歩けば良かったのだと、ようやく思えていた。幾ばくもたたぬうちに、女の手元を飛び立った傘は、もうずいぶん遠くにゆこうとしている。わたしの所有から離れていった、女は傘をあきらめて、濡れた身体と濡れた自転車を前に押し進めた。風雨に圧倒され、勇みという点で女はそれに負けていた。町はずぶ濡れであった。
息も絶え絶え住んでいるマンションの前にたどり着くと、いつも開いているはずの、マンションの入り口の扉がかたく閉ざされている。住人たちは、扉を開けて入ったすぐあたりに、こぞって各々の自転車を駐輪していた。扉は、強風で自然に閉まってしまったのだろう、と女は思った。自転車を片手で支え、もう一方の手にぐっと力を込めて重い扉を押しやると、見知らぬ男が通路の壁に向かって立ち小便をしている。傷みの激しい陰毛のような茶色い頭、濃い紫色のニッカーボッカーは乾いた泥とペンキだらけの、土気色の肌をした若い男が、用を足しているというより、徐々に濡れゆくコンクリートをじっと見つめ、ときどき腰もとをしなやかに動かし、それは小便でなにか描いているようにも見受けられなくもなかった。扉が開かれたことにも気付かず、自分の行為に深く心を傾け、心酔といった雰囲気である。どうかしている光景であった。ここ数ヶ月、コンクリートと小便のにおいが混ざったのを、女は何度もこの場所で鼻に付いたことを覚えていた。男の手慣れた様子が、どうにも初犯ではないということを証明している。振る舞いはたいへんたおやかで、のびのびと、元気があるので、それを見た若い女は感心するというより、一連の犯人と思しき人物にいきなり出くわしてしまったものだから、狼狽した。男が自分の存在に一刻も早く気付き、よそにいってくれることを切に願い、そのためのよい方法は何かないものだろうかと、考えをめぐらした。女は自転車のハンドルを持ち上げ、機体を宙に浮かせ、勢いよく地面めがけてそれを振り落とす。大きな音がガタンと響く。男は思いがけない物音にびくついて、一瞬跳ね上がり、
「ヤ、ヤア、こんばんは」
と女に向って微笑んで、あわただしく服装を正し、逃げた。通路には雨の湿ったにおいと、古びたコンクリートのにおいと、小汚い男の小便のにおいが残った。これだこれだ、このにおいだ、と女はさらに確信めいた。混じり合った生臭いのが、女のずぶ濡れの衣服に染み込み、水滴の滴る肌をなで、鼻孔にまとわりつき、女は耐えかねる思いがした。男の小便が内壁をつたい、幾筋の川の流れを床に描いた。やがてそれは、どこからともなく通路に侵入した雨水のたまったところにゆきついて、ねずみ色の床をいっそう黒く濡らしている。女はその汚らしい吹き溜まりを見ると、さらに嫌悪を強めて、雨で打たれた老体に、もう、鞭というより、ゴミバケツの中身を上から浴びせられたような気持ちになった。いやだいやだ、もう本当にいやだと、自転車を停めやり、自宅の郵便受けにピンク色の封筒が入っているの見つけると、さっと手を伸ばし、それを奪い、はやばやと階段を掛け上がった。女にとって、その場所はもはや不浄というのがしっくりきていて、とにかく部屋のなかに入りたいという一心であった。途中、階段の踊り場で鈍い音が響いた。振り返ると、女の後ろに女の頭ほどの大きさの、コンクリートのかたまりが、床にあった。今さっきまでなかったのに、あるということは、どうも天井から落ちてきたらしい。
「わたしの頭くらいの大きさだわ」
と、女は思った。瓦礫の一部が床と接触した衝撃で粉砕し、細かい破片がそこらに飛び散っている。もしこれが自分に当たって、打ちどころが悪ければと思うと、女はぞっとして、天井を見上げると、欠けている部分と目の前にある瓦礫の大きさがちょうど合致するので、やはり上から落ちてきたのだと強い思いを抱いた。天井の抜け落ちた部分は、鉄筋が露呈し、鉄骨はすっかり錆びついて、虫が喰ったかのように穴だらけで、スカスカしていた。赤褐色の錆汁や、緑色や白色に変色した錆がこびりつき、使いものにならない馬鹿なロボットの、荒れ果てた脳ミソのごとくであった。女はその中身をしばらく見つめていた。点いたり消えたりの蛍光灯が、不規則に脳ミソと女を照らす。蛍光灯のまわりには、名前も分からぬ小さな羽虫が無数に飛びまわっている。女はさらに気分が悪くなり、見なければよかったのだと、ドアノブを回した。玄関のドアは、大家の意向で真っ赤に塗りたくられていた。彼女がまだ中学生であったころ、同級生のヤンキーの女の子に、「赤いドア」と渾名を付けられ、おもしろがられていたのはなぜだろう。女はふいに思い返した。
「お父さんは?」
部屋のなかでは女の母親がひとりテレビを見ていた。父の姿が見当たらなかった。
「カラオケいった。長政さんと」
「こんな雨降りに」
気違いやわあ、と母は憎たらしいものを思い出したように顔をしかめ、こうべをふるわせる。この母親というのは、自分の夫がカラオケ喫茶に出かけるのをいつもいやがった。こんな遅くにでかけるのは年寄りの体に差し障るとか、歌いすぎたら翌日喉をおかしくするとか、飲みすぎれば翌朝つらいとか、何かと理由をつけ相手を脅かすが、夫はきかなかった。そのくせ夫がパチンコにいくというと、喜び勇んで仲良しのデートであった。夫人は「悪い遊びを教えられた」と苦々しい口調で夫にたいしていやな目つきをするが、それは金しか信用しない高利貸しの銭ババアが、万札を数えるときのそれに似ているかもしれない、と、娘は思った。とたん、娘は自分の母親が、高利貸しの、人非人の、救いがたい銭婆であるような気がしてきて、少し憎らしくなった。娘が保育園に通っていたころ、その日の夜も二人揃ってパチンコにいこうと話し合わせていたのに、めずらしく子どもがむずかりだしたので、夫婦は仕方なく子どもを同行させ、その日は珍しく大勝ちしたものだから、よろこびのあまり子どもを忘れ、金だけ持って帰ってしまったことがある。帰宅して異変に気付いた夫婦は、あわてて店に戻り、置き去りにした子どもを連れて帰って、育て、やがて成長したOL風の若い娘は、濡れたカバンを椅子の上に置き、封筒を机に置いた。タンスからタオルを一枚取り出し、雨水の染み渡ったカバンを気休め程度に拭き取って、ずぶ濡れの衣服を洗濯カゴに脱ぎ捨てると、額ほどの小さな湯船に、冷え切った体を浮かべた。お湯の中に浸かっていると、少しは疲れが引いていくようにも思え、娘はここにきてようやく少しばかり安堵の心持ちとなった。
マンションの廊下に足音が響く。喉に絡んだ痰を吐き出そうと試みる、男の咳払いを認めた。こちらに近づいてくる。足音はそのまま大きくなってゆく。玄関のドアが勢いよく開かれた。
「よー降られたでえ!」
と、帰宅した足音の持ち主が驚嘆の叫び声をあげた。女の父と思われた。
「でもなあ、長政さんが送ってくれたから、濡れんですんだわ」
大声で快活なのは酔っているせいだ。母親はおし黙っている。
「そんなことより、今なあ、沼田の奥さんと自転車のところで会って、お宅の娘さんの自転車が邪魔なんやけど、ってオレにいうんやで!」
沼田さんはとなりのとなりに住んでいる老夫婦であった。沼田の奥さんはいつもふてぶてしく、いつも不満げで、無愛想で、何かあるとすぐに難癖をつけるので、マンションの住人に敬遠される六十前後の夫人であった。娘は湯船のなかで、先の小便の一件に驚いて、自転車をずいぶん適当な位置に、乱雑な置き方をしてしまったこと思い出した。はやく置き場に戻って、自転車を停めなおしてこようと、湯船から立ち上がり、
「そやからな、オレは腹立ってあのおばはんに(そんなんお前が娘にいわんかい!)って、怒鳴りちらしたったんや! そんなもんオレが知るか! オレは関係あらへん。あのアホが」
何くそという調子で父親は自分の妻にいって見せている。
「おばはん、オレが怒ったら、えらいびっくりして、あわてて自分の家へ戻っていったわ」
勝ち誇って鼻で笑う声が聞こえて、娘は風呂からでた。居たたまれないのは沼田さんで、自分に非もなく注意しただけなのに、不当に怒鳴られ、沼田さんは、可哀相に、事故に遭ったのだ。歩いていて、上からコンクリートのかたまりが降ってきて、えらいぶつかり方をしたものだ。娘が慌ただしく衣服を体につけていると、外側から玄関の赤いドアを外側からかぼそく叩く音がするので、来客が訪れるのをあまり好まない娘は、それをしばらく放って置いたが、弱々しさを以てまだノックし続けるので、気味が悪いなあと思いながらも、おそるおそる鍵を開けると、隣でひとり暮らしをしている河西夫人であった。
「夜分遅くにごめんなさい、ちょっと、相談したいことがあって、お母さんいる?」
と深刻な顔つきであるので、娘は母親を呼んだ。母親は慌てて人前に出られるような服装を豊満な肉の上に着込み、加齢とともに少なくなってしまったショート・ヘアーを両手で手早く整えると、急いで玄関口まで歩いた。
「今日、ピンクの封筒、入ってるの見た?」
河西夫人は母にたずねた。夫人はピンク色の封筒を手にしている。娘には覚えのある封筒であった。娘は机に置いてあったのを母親に差し出した。読んでみると、どうやら今住んでいるマンションの管理会社が変わるらしく、契約の内容が変更になるので、それにともなって契約料や敷金、礼金、さらには不思議と先月分の家賃もあらためて、一週間以内に支払え、とのこと。
「わたし、急にこんなこといわれたって……」
河西さんは今にも泣きそうであった。
「こんなこと急にいわれても」
母親の表情も、容易ならざると、変化している。
「わたし払うお金もないし……」
「うちも、お金ないわ……」
「こんなこと、急に、聞いてないわ」
「そうでしょう? わたしもおかしいと思って、それで相談しに来たの。やっぱり何も聞かされてないわよねえ?」
河西さんが訊ねると、母は深々とうなずいた。
「わたし、必死で働いても給料は安いし、お小遣いは一万九千円しかないのに。それに……」
河西さんは、自分の月々の収入や、支出の詳細を隣人に話しはじめた。
「仕事先ではまだわたしのことを苛める人たちがいるし、それに……」
あまり立ち入ったことを訊いてもどうしようもないと判断した母親は、
「ほんとに困るわぁ。毎日の生活でいっぱいいっぱいなのに」
と、夫人の言葉を遮って、結んだ。夫人は口をつぐんだ。
「ちゃんと大家さんに訊いたほうがええんちゃう?」
母が、手紙にもう一度目を通しながら、眉間に皺を寄せ、
「わたしひとり暮らしだし、息子はぜんぜん助けてくれないし、わたし、心細くって……」
「息子さんいくつになったん?」
「三十六」
「何にもしてくれへんの?」
「そうなの、困ったことがあっても、ぜんぜん聞く耳持たないし、頼りなくって。お嫁さんのいうことばかり聞いて、わたしなんて放ったらかしなの」
「お金払って部屋をリフォームしてくれるんならまだ分かるけど、そういうわけでもなさそうやんなぁ」
「こんな壊れかけのボロいマンション、お金があったら本当は出ていきたいんだけど、わたしのお給料は少ないし、わたし、お小遣いは一万九千円なのよ」
「わたしもな、こわいんさあ、たまに天井からコンクリート落ちてくるやろ。当たったら大怪我せにゃならん。雨漏りもひどいし、換気扇に鳩が巣を作るし、大家さんにいうてもそっしな顔しとるし」
「わたしもお風呂結局自分で直したのよ」
「いやで! あんた、あれ自分で直したん?」
「そうよ! 二十五万もかかったのよ!」
「ほんまに!」
不穏な雰囲気を察した父親が奥の部屋から出て来て、なんやなんやと騒ぎ出しはじめ、妻が夫に説明すると、輪をかけて喚きだしはじめた。
「やっぱり、大家さんにちゃんと聞かなあかんな」
母親のいうことを聞いて、娘が、
「話してちゃんと取り合ってくれれば良いんだけど……」
というと、夫人ふたりは不安そうに顔を見合わせた。
「市の相談センターとか、弁護士さんとかに話し聞いてもらって、専門の人の意見を聞いたほうが良いと思う。こんな紙切れ一枚で、何の予告もしないで、はい、そうですかって払えるもんじゃないし、契約は三年になっているけど、はじめからこんな横暴な対応だと、今後何かトラブルがあったとき、ちゃんと対応してくれるとはとても思えない」
と、娘が話を続けると、相槌ばかり打っていた父親が、「オレに良い考えがある」と不敵に笑うので、夫人たちが言葉を待って、父は、弁護士に相談するんやと、満々にいって見せた。
「弁護士っていうても、知り合いもおらんやろ」
冷静な指摘が表情をかたくしている妻によってなされた。夫は即刻肩を落とした。
「市議会の人が、お父さんの知り合いにいなかったっけ?」
娘が訊ねると、父はもう一度表情に花を咲かせ、「そうや! 前田さんや!」と、居ても立ってもいられず、もう夜は遅かったけれども、「オレ、ちょっと電話してみる」と、柱にかけてあった電話帳を開いて、受話器をとるが、今度は向こうが誰も受話器をとってくれない。これ以上の進展はないと判断した河西さんは、そろそろ家に戻るわ、といって、その家を後にしてしまった。夫人が帰ってからも、夫婦の談話はしばらく非常の事態について持ちきりであったが、やがて夫の方が飽きてしまって、居間のテレビのチャンネルを替え、横になり、
「なあ、なんで、明智光秀は殺されたんや?」
と娘に訊ねるので、わからないなりに子どもが説明していると、
「ほえー」
といって眠ってしまった。父が眠ったあと、母と娘は、こんなマンション、もう出ていこうかと相談しはじめていた。新しく住む場所を、すぐに見つけられるのか分からないし、引越しの労力を考えると、ふたりは辟易した。
それで今夜、マンションの住人がこの家族宅に集まっている。先日届いた例の手紙の件で、住人たちの意見が聞きたいのだと、父は急きょ会合を開くのであった。急な話ではあったが、切迫した状況下のもと、思った以上に参加者が多くあるのであった。河西さんはもちろん、沼田さん夫妻も来ていた。男やもめの土方の青年が数人、昔は金持ちだったらしい後家のお婆さん、自営の会社が立ちゆかなくなり自己破産の後、奥さんと子どもに逃げられた中年男、酒とタバコとパチンコが大好きな子沢山の若い夫婦。我が家に集まる人々を見て、烏合の衆といったところだと、娘は思っていた。話し合いが進められても、まったくそうであった。誰ひとりとして知恵がない。このままいくと、大家や管理会社に、悪くしなくても舐められて、丸め込まれてしまうだろう。学がなく、欲がなく、運がないから、こんなボロアパートに住んでいて、そんな人たちが突然降りかかる苛政に、まっとうに立ち向かえると、とうてい思えないと彼女は思った。だからといってわたしに何がいえる? わたしは言葉が立たぬ。鼻声でどこか抜けたような話し方をするし、機知に富んだ言葉を返す瞬発力もないから、馬鹿にされて終わるだろう。わたしもカラスの一羽に過ぎないのだ、と、娘はひとり考えながら、客人のためにお茶や茶菓子を運んでいた。話し合いは堂々巡りであるけれども、住人たちはマンションの不平不満について代わる代わる口にし、賛同しあい、怒りを頂点にまで募らせている。父は人々の先頭に立って、今日の朝早く、大家に掛け合って来たという、誰しも耳寄りであろう話を聞かせるのであった。
「オレは、こんなことやったら、弁護士を呼ばなあかんなあっていってやったんですわ!」
父は誇らしげに回想し、父の戦陣を切って先に進まんとする態度は、戸惑う住人にとって、心強くうつっているようで、たいへん値打ちがあった。カラスたちにはリーダーが必要であった。困惑と憤慨のやり切れない暗雲に、ひとすじの希望の光が射しこみ、住人たちは少しずつ笑みを取り戻しはじめる。この男ならやってくれるかも知れない。頼りにされていることを体じゅうに感じた父親は、
「このままやったら、弁護士にでも頼まなあかんですわ!」
「オレは、こんなことやったら、弁護士を呼ばなあかんなあって、大家にいってやったんや! 大家に」
「大家に、そんなんやったら、弁護士でも頼みましょか、といってやったんですわ」
「そんな無茶なことしくさるんやったら、こっちにも考えがあるって、いってやったんですわ。弁護士」
「こんなん、オレオレ詐欺ですわ!」
と、続けざまに息を荒げ、揚々と声を張り上げている。民衆は一瞬、さっきから同じことをいっているんじゃないかとか、一体何をいっているのか意味を解せないような表情をしたが、自信満々の父親を問い詰めるのが申し訳ないとか、あるいは聞かなかったことにするとかして、各々受け流した。たとえ、リーダーが自分たちと同じカラスであっても、もしくは、それ以下であったとしても、彼らには主導者が必要であったのだ。
さて、ここに来ると、張りつめていた雰囲気も、もう談笑するまでになっていて、娘が運んでいたお茶も、アルコールの類とか、ケンサキとか漬け物とか、そうしたものになり代わって、運べば運ぶほど、住人の笑い声は大きく、騒がしくなってゆくのであった。父と沼田の奥さんも、自転車の一件はまるでなかったように、肩を並べ、けたたましく笑っている。ボロマンションの一室、こうして祭りがはじまった。歌の好きな住人たちは、次々と高らかに歌を唄い出した。若者のひとりが自分の部屋から沖縄三線を持ち出して、故郷の島歌を唄うと、もうひとりの若者が、音楽に合わせて陽気に踊りはじめ、いよいよ人々は、本来の目的を忘れかけていた。お調子者の父は、さぶちゃんの『まつり』を思いきり、持ちうる限りのビブラートを込めて、人にケンカを売るような歌唱力であったが、住人は揃って手拍子を合わせ、唄い終わると拍手が沸き起こり、今度はお運びをしていた娘に唄え唄えとせがみはじめた。娘は恥ずかしがって断ったが、そこにいたすべての人間が、いう通りにしないと許さないというような顔で娘の方を見つめているので、仕方なく唄い出すのであった。
「いつまで! たっても! 風来坊!」
はっぴいえんどを唄った。集まっているのは年配か若くても四十過ぎであったが、そんな洒落た歌、住人の誰ひとりとして知らなかった。わたしは風来坊であるけれども、老いた父母を風来坊にさせるわけにはゆかない。居場所が必要なのだ。娘はそう思っていた。
投稿者 かちゃくちゃ : 00:00 | コメント (0) | トラックバック (0)



